essay「人としての本質論」

text by tw
Web掲載日:2019/10/02水/加筆 編集:2021/10/29金


まず初めに、

『筆者の「本質論」を展開すれば、
画家の本質は絵を描く事だし、歌手の本質は唄を歌う事だし、料理人の本質は調理する事である。

では、例えば、家が大富豪で、金銭的に全く働く必要性が無く、
しかしその家の娘は、芸術的に素晴らしい絵を描く事が日課で、作品を次々にインターネットで公開しているとしよう。
そしてネットでその絵画を観覧した世界中の多くの人々が感銘を受けている。
しかし、その作品は誰からも観覧料金を一切取っていないし、どこへも売り出した事は無い。
つまり職業にはなってはいないのだが、では、この娘は画家ではないのだろうか???』

というのがテーマだ。

筆者は小学生の時に、親へ、「人は、なんで生きているの?」と訊いた経験がある。
親は、「それを言ったらオシマイ。」と答えていた記憶だが、その時、筆者は子ども心に、何か非常に引っかかっていた。
当時はそれを上手く言葉にできないで居たが、大人となって以降、
「あの時の親の返答は、何か大切な事を“ないがしろにしている”。」と確信する様になった。

さて、とある、ネットで見かけた話だ。
専門学校だったかを卒業するらしい娘が、「フリーランスになるつもりだ」と親へ伝え、親に反対され、
父親は自身の意見を、丁寧に手紙で娘へ伝えた。
その内容は、フリーランスになるよりも、企業に就職した方がこれだけのメリットがあり、これだけリスクが少ないと云うものだったが、
父親である彼の、選択の考え方は非常に正しいし、筆者もどこにも異論はない。

ただしかし、彼女の目指す役職が、(…例えばここではWebページ・クリエイターであるとしよう。)
父親は、「Webページ・クリエイターの学校を卒業したてでは、まだWebページ・クリエイターの「卵」であって、
実際に収入を得る仕事にできて、初めてWebページ・クリエイターとなる。」と主張していた。

確かに、これは既存の社会(西暦2019年の時点)を生きる上で、大切なメッセージだ。

だが、しかし待ってほしい、伝える事は、これだけで十分なのだろうか?
筆者には、考察にあたり必要なエリアである、「物事の本質」を、伝え忘れている様に思える。
もしかしたらそれはもう話してあるのかもしれないが、筆者が見た内容では、それは無かった。

ここから先に綴る内容は、人によっては、「それは今回の話の路線からズレている。」とか、
「今回の話にその必要性は無い。」と捉えられるかもしれないが、
しかし筆者は、自身のこれまでの人生経験から、そこに非常に強い価値観と必要性を見い出しているのだ。

筆者はこういうケースの場合、必ず、頭に「職業としての、」と付け加える様にしている。
つまり、「職業としての、Webページ・クリエイター」と明記しないと、後で勘違いが起こると筆者は主張したい。
実際に、娘の父親のメッセージは、保険や税金など、お金の損得の内容に終始していた。
物事としての「存在意義」については一言も言及されていない。
進路を考慮する上で、「存在意義」は全く必要はないのかもしれないが、しかし存在意義をないがしろにして大丈夫なのだろうか??

だいぶ誤解を招くかもしれないが、
物事の本質についての思考を軽視し、または全くせず、ただ日々、生き延びて子孫を残すだけの存在を、
筆者は、「蛋白質で構成された機械」ではないのかと感じるフシがある。
そこに、物事の中核部分である、本質を「想う心」が無い様に思われるからだ。
人は、哲学の領域までとは云わないにしろ、
“物事の本質の部分を思考して”初めて、存在意義や価値のある「人間」と云う生物となると筆者は考えている。

もう一度云うが、「生活費を稼げる職業とできて初めてそう呼ぶのだ」という意見には、
今を生きるには十分かもしれないけれど、物事の本質を捉える上で、「欠落した部分」があると断じれそうなのだ。

もう一度述べるが、『筆者の「本質論」を展開すれば、
画家の本質は絵を描く事だし、歌手の本質は唄を歌う事だし、料理人の本質は調理する事である。

では、例えば、家が大富豪で、金銭的に全く働く必要性が無く、
しかしその家の娘は、芸術的に素晴らしい絵を描く事が日課で、作品を次々にインターネットで公開しているとしよう。
そしてネットでその絵画を観覧した世界中の多くの人々が感銘を受けている。
しかし、その作品は誰からも観覧料金を一切取っていないし、どこへも売り出した事は無い。
つまり職業にはなってはいないのだが、では、この娘は画家ではないのだろうか???』

その答えは、時代によって左右される気がしてならない。
生活する上でお金が支配的な時代では、この場合、画家かどうかは半々なのかもしれない。
と云うのは、未来の社会では、貨幣の概念や必要性が無くなるかもしれない為だ。
今(西暦2019年)から5百年後の世界で、未だお金が人々の生活に支配的な影響を与えていたならば、筆者は驚きを隠せないだろう。
(まあその時に筆者は生きていないだろうから実際に驚く事は無いのだが。)

未来を見据えれば、ナノテクノロジーの行き着くところとは、万能な3Dプリンターの完成である。
材料の分子さえ入れれば、何でも造れる機械だ(!)。
名称は「レプリケーター」とか、「分子アセンブラ」と呼ばれると思う。
ただこの機械は、べたべたな糖蜜の中で腕時計の部品を組み立てるような作業であり、実現は無理だ。と云う意見もある。
しかし、それは技術的にハードルが高いだけで、物理学的に不可能と示されるものでは決してない。
人類が、ライト兄弟で少し飛行できてから、月面に到達するまでにかかった年月を思い出してみると良いだろう。
レプリケーターの実現は、西暦2130年〜2200年頃なのではないかと個人的に想像している。

レプリケーターが完成した以降は、レプリケーターでレプリケーターを製造する事が可能となり、
社会は、段階を経ながら、製造業が姿を消してゆく。
発明や開発業務は残るが、そのエリアは、量子コンピューターで走るAI(人口知能)がだいぶ幅を効かせるだろう。
人の英知が必要になる領域でだけ、人が働く領域が残される事になりそうだ。
すると多くの人々は、労働やお金から解放され、価値観について考える様になる筈だ。



ところで、筆者は昔、社会的ステータスの高い、とある人から、
「実務のリスクを負っていない限り、そのアイディアに何の価値も無い。」と断言された事があるが、
では彼は、筆者が行った理知的な技術に関する作業内容は、いったい何であったと云うのだろうか???
確かに、筆者が行った空力デザインのアイディアを他社へダイレクトに売っての対価は得ていない。
Webサイトで公開し、その広告収入があるが、確かに直接は買い取ってもらってはいない。

しかし待ってほしい、筆者が発案したデバイスは、2003年以降、Webサイト上でいくつも公開してあって、
それと同じシステムのデバイスが、現実に、何度もF1グランプリで登場してきた。
確かに筆者はプロの空力デザイナーではないが、アマチュアの空力デザイナーではあると思って居る。

ここで本質論を展開すれば、筆者はF1グランプリで登場したデバイスと同じシステムを、
どうやって発案して、どうやってスケッチして、どうやってWebサイトで公開できて居るのだろうか?
答えは余りにも簡単で、「筆者は空力デザインを行える」からだ。
空力デザインを行えなければ、新しい空力デバイスは発案できない。(あたりまえだ!!)

しかし彼は、「実務のリスクを負っていない限り、そのアイディアに何の価値も無い。」と決して譲らなかった。
筆者はこれを、「発案の価値への決定的な侮辱」と受け止めている。

その彼は、昔、「これまでは車体上面の空力が開発されてきたが、これからは車体底面の空力開発が重要になる。」
と公言し、確か大学の卒論にもそれを書いて、その後、F1グランプリで車体下面の空力が重要な時代が到来したと、
その人から筆者はそう聞いている。(時系列的に真実かどうかは知らないが。)
彼は、これを少しの自慢にもしてきた様だが、
しかし具体的にどういう方法で車体底面の空力作用を実現するかについては全く触れられてはいなかった。

それは昔なら、世界の宝探しで、「もう西の大陸はほぼ全て探して回ったから、次は東の大陸に宝を探しに行くべきだ。」
と言ったのと、同じ領域ではないのか?
勿論、それも大切だが、それが物事の全てではないと云うところが非常に大切である。
筆者は彼と違い、具体的な技術アイディアを発案し、スケッチし、Webサイトで公開する事ができて居るのだ。
この事は、創造性の決定的な領域の違いがあると、筆者は断ずる。



つまり、筆者が最終的に何を云いたいのかと言うと、頭に「職業としての」という概念を付け忘れたり、
そもそもその事自体を考えてすら居なかったりすると、本質を間違って捉えてしまう危険がある!という事だ。

筆者は、もし自分の子どもが、頭脳明晰で、容姿も良いが、しかし、ものを想う心が皆無だったら、ガッカリして絶望するだろう。
これらは価値観とか感性の領域に入るので、知らない人から見たら、「何の話だか判らない。」となるのであろうが、

筆者は、自分の子どもから、「人は何故生きて居るの?」と訊かれたら、
「それを言ったらオシマイ。」と、問いをないがしろにして逃げる事は決してしたくはない。
筆者は、自分なりの「答え」を示せす覚悟ができている。

そして、冒頭に登場したWebページ・クリエイターの彼女が、もしもそれが上手く仕事にできなかったとしても、
「あなたはWebページ・クリエイターになれてはいない」などと心無い言葉をかけたりもしない。

このテキストを読んだ結果、「何だ、そんな事か。」と思われたら、それでしかないのだが、
筆者は「そこ」に生命の存在意義が在ると主張したい。
生命の意義や意味や価値について考察できる事が、「命ある生きもの」として重要だからだ。
今この瞬間には必要がないから本質論は無用だという意見には、賛成はできないのだ。

稚拙でまとまりのない文章となっていて、読んで頂けた皆様には大変申し訳ないが、これが昨今、筆者の想うところなのである。

2019年10月02日にて。 tw-idea

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