ジョーダン191 text by tw (2019. 1.11金)

ジョーダンチームは1991年からF1GPに参戦開始した。
チームオーナーのエディ・ジョーダンの手腕で、参戦初年度にも関わらずフォード(コスワース)HBエンジンを使用する契約を結んでいた。
当時フォードの新型エンジン「HB」シリーズは、1990年まではベネトンのみの供給体制で、
ジョーダン以外の他フォードカスタマーチームがHBシリーズを搭載できるのは1992年からだった。

このフォードHBエンジン(自然吸気3.5リッターV型8気筒)は軽量コンパクトさが売りで、
デザイナーにとって非常に扱い易い仕様であり、中団チームにうってつけのエンジンだった。

そんな良いエンジンを搭載するジョーダン191は、ゲイリー・アンダーソンがリーダーとなり設計され、
非常に独創的な空力デザインでエアロダイナミクスに秀でており、何度も入賞するなど活躍したマシンだ。
筆者の記憶が正しければ、当時のジョーダンチームの規模は、設計部門が20名程度、年間予算が20億円程であった様だ。




この年のジョーダンチームのドライバーは当初、アンドレア・デ・チェザリスとベルトラン・ガショーのペアで、2人とも好調だったが、
筆者の記憶が確かならば、ガショーがタクシーの運転手とトラブルになり、催涙スプレーを使用し、
しかしその国の法律では催涙スプレーの使用が禁止されており、ガショーは投獄されてしまった。

そこで次戦のベルギーGPは、新人のミハエル・シューマッハが出走する事になり、予選で7位に食い込んだ。(クリアラップが取れていれば3位だった説あり)
いくらシューマッハと言えど何故いきなりスパでこんなに速かったかと云うと、実は”タイムを稼げるポイント”があった。
シューマッハは事前のシルバーストーンテストで、「191」が高速コーナーでスロットルを戻すと挙動不安定になる事に気付いていた。
そこで彼は、超高速ブランシモンカーブで(もしかすると他の高速コーナーでも)、スロットルを開けたまま左足でブレーキングし、安定した挙動で高速コーナーを抜けていた。
(当時左足ブレーキを駆使していたのはセナとシューマッハとパトレーゼだけだったらしい。)

しかしチーム予算の都合から「191」は徹底して“安く”造られており、クラッチも当然、安価な物だった。
それがチームからシューマッハへよく伝わっていなかった様で、彼は決勝レースのスタートでクラッチを吹っ飛ばしてしまい、
1コーナーを抜けた後スローダウンしリタイヤとなった。

筆者の記憶が確かならば、このレース中盤、チェザリスが2位を快走しており、トップのマクラーレン・ホンダのセナはトラブルを抱えながら走っていたので、
「各パーツを徹底して優しく扱う事!」と明確にシューマッハへ伝えてあれば、彼はF1デビュー戦で優勝という快挙も可能だったかもしれない。



尚、シューマッハはメルセデスの秘蔵っ子ドライバーであり、その力をもって次戦イタリアGPからベネトンへ電撃移籍する。
それまでベネトンで走っていたロベルト・モレノは事実上解雇され、適当にトレードという形でジョーダンへ移籍させられた。
ベネトンのボスのフラビオ・ブリアトーレは、モレノの解雇理由を「体力不足」としていたが、
筆者の記憶が確かならば、R.モレノは前戦ベルギーGP決勝でファステストラップを記録していた。

この事件を受けて、ドライバーの人権を守る為、規則でチームの年間ドライバー交代回数に制限が設けられる様になった。

そんなこんなで、シーズン後半のジョーダンのシートは、アレッサンドロ・ザナルディだったり、色々なドライバーが乗っていた。
(ちなみにソースを忘れてしまったが、ザナルディは新人にも関わらず、予選での鈴鹿の1、2コーナーのセクション・タイムがトップだった様な気が・・・。)
ジョーダン191は、そのデザインの美しさと性能の高さだけにとどまらない、多くのエピソードを抱えたマシンとなった。

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