出場レース:
「1990年ミニ四駆グレートジャパンカップ」埼玉大会・東京大会
写真撮影年月:1990年の9月か10月頃
この年のグレートジャパンカップは、
第1予選レース、(確か上位2着までが次の予選へ進めた記憶。)
第2予選レース、(確か上位2着までが次の決勝へ進めた記憶。)
決勝レース、という構成で争う。(レースタイムを集計し、最速タイムが優勝。)
レースは5レーンのコースを5周、同じレーンを1度だけ通過する。
このスケッチは決勝のコース。(発表値では全長236メートル)
予選のコースはこれよりも距離が短いが、内容は似ているもの。
スタート/ フィニッシュライン |
決勝レース:
予選同様、他車に圧倒的な差をつけ、2台を周回遅れにして独走、
レーンチェンジャーの上段と、スロープ下りの着地後の最もイン側のコーナーも無事クリアしたが、
最終ラップのスロープ下りの着地でコースアウト、リタイア。
この区間の"最もイン側"をクリアできていたので、そこよりも危険度の低いレーンでコースアウトした理由はよく判らないが、
その原因として考えたのは、
・ショック吸収ゴムタイヤは、ホコリが付く程に衝撃吸収性が低下する(テスト済み)ので、
走行距離を重ねた最終ラップの着地で跳ねた可能性。
・他車を周回遅れにする際に、係員の撤去作業が遅れたり手間惑って時間がかかっていたので、
周回遅れのマシンを押し続けての走行が続いた事でフロントローラーが上向きになった可能性。
予選前の車検: タイヤでモメる。(ショック吸収ゴムタイヤを小径化する為に削った経緯)
車検の係員はフロントタイヤを他の物と交換するよう言ってきたが、
こちらは合法の改造で、埼玉大会の車検で何の問題も無かった物と同じタイヤだと主張し、
では予選はこれで良いが、決勝では交換するように。と云う事になって予選へ。
第1予選レース: (1位だったか2位だったか忘却)
第2予選レース: 2位 (やたら車速が遅かった)
決勝前のメンテナンス:
ギアボックスを開けたら、なんとギア比を間違えて 5:1 にセットしていた事が判明。
日頃 5:1 にしてあった。こんなアホな間違い犯してよく予選通ったなと。
そして致命的なアクシデント発生、リヤスタビを装着する為に必要なボディキャッチ部分が破損。
工具とプラ板は持って来ているが、決勝までに自作リヤスタビを造り上げるには時間が足りない。
スペアカーを用意しておくべきだったが、後悔しても遅い。
仕方無くシャーシ・ボディ・スタビを纏めてアロンアルファで接着して車検へ臨む事に。
接着すればボディカウルは取り外せないが、今まで車検時にボディカウルを外された事は無い。
タイヤの件は、これが元々レギュレーション上問題の無いタイヤである事と、
交換可能な仕様のタイヤを用意しておらず、このまま換えないで行く事にする。
決勝レース前の車検:
タイヤの件でモメる。 係員からこのタイヤが違反とされる理由の説明は無し。
レース待ちの列が進み行くので、車検場でマシンを預け、自分は列の中で待つ事になる。
しばらく待ち、係員からボディカウルを取り外すには?と問われ、
仕方無いのでスタビを捻り 接着した箇所を壊して ボディを取り外し、係員にマシンを渡す。
マシンは再度車検場へ。
またしばらく経ってマシンが返され、このタイヤのままで出走を許可される。
車検後のマシンの変更は許されていないので、係員にスタビの接着の許可を得る。
列が進む中作業、再度アロンアルファで接着しようとするが、接着跡の再接着は付かない。
(結局どういった状態でレースに臨んだか14年経った今では記憶に残っていないが、
リヤスタビの装着は諦め、セロハンテープか何かでボディを止めていたかもしれない。)
決勝レース:
2周目だか3周目にコースアウトしたらしい。(自分からは見えない区間から戻って来なかった。)
リヤスタビの未装着が原因でコースアウトした可能性は考えられる。
帰宅後、メンテナンスでギアボックスを開けた後、カウンターギアのシャフトが見つからない。
すぐにその周辺を探したが結局見つからず、
この前にギアボックスを開けたのは、決勝前のメンテナンスの際。
このメンテの時か、または車検でシャフトが無くなった可能性も考えたが、
シャフトが無ければ、決勝のスタート時にスイッチを入れた時に気付くと思う。
もし気付かずにシャフト無しでスタートすれば、
最初の大バンクを登れずにリタイアとなった可能性が考えられるが、後となっては不明。
後日テレビのオンエアで、自車のスタートの様子が映っていたが、シャフトの有無は判らず。
尚、同放送でこの東京大会の優勝車で、その直後の日本一決定戦でもチャンピオンとなったマシンの走行を観る事が出来たが、
自車が万全の状態で臨めても、あのチャンピオン・マシンのタイムには及ぶかどうか難しいところだったと思う。
1990年 ミニ四駆グレートジャパンカップ レース結果:
埼玉大会・決勝レース リタイア
東京大会・決勝レース リタイア
シャーシ
「タイプ3」をさほど改造せずに使用。
毎度お馴染みの懇切丁寧な慣らし運転とメンテナンス。
改造箇所は、駆動系統の摩擦ロスを低減させる削り込みや、
あまり記憶は定かでないが、モーターカバー等の肉抜き軽量化をしたと思う。
フロントバンパー下側の両端に、FRP製の板をネジ止め。
当時はまだミニ四駆用のFRPプレートのパーツは発売されていなかったので、
田宮RCタムテックか何かのシャーシ板だけのパーツを1300円くらいで購入し、切り出した。
フロントバンパー上面にダイキャスト製(←多分)のウエイトを搭載。
搭載量は記憶は定かでないが、恐らく、
中央に8グラムと、それの両端部分に更に2グラムづつ搭載した様な記憶。
そして、ウエイトの前端から上面にかけて金属製のヤスリで削り、パテで滑らかに整形したので、
ウエイト重量は12グラムより若干軽い。
埼玉大会でコースアウトしたので東京大会では若干積み足していたかもしれない。
フロント、サイド共に 径16mm。
(ウイニングバードのキットに付属する、穴開け軽量化してある物)
大径ローラーを選択した理由は、
フェンスの継ぎ目のギャップに当たった際の衝撃を小さく抑える為と、
ローラーで成す車幅を広くして、コース内での蛇行による走行距離の増加を抑える為。
自作バンパー等でローラー幅を規定一杯までワイド化しなかった理由は、
ジャンプセクションで、あまり幅広過ぎてコース内部に着地できない可能性を考慮した為。
フロントローラーの角度は、装着時に僅かに前傾する様にして 斜めにネジ込んだ。
当時はダウンスラスト効果を重要視しており、フロントローラーはゴムリングを装着。
サイドには、自作のスタビポールローラーを装着。(←雑誌に載っていた改造を100%真似。)
当時はまだスタビポールローラーは発売されていなかったので自作した。
前後共に後輪用のショック吸収ゴムタイヤを使用。
前輪は残り厚1mm程までローハイト化したが、出来がかなり雑になってしまった。
(このゴムタイヤは、タイヤサンダー、紙ヤスリ、金属製のヤスリでもほとんど削れず、
−ついにはタイヤ厚を 爪切りで ぶちぶち切り始め −
最終的に仕上げを金属製ヤスリでやれば一応綺麗にスリックになるだろう と思ったけど ならなかった。
でも一応 近場のジャパンカップジュニアサーキットで走らせてみたら
普通にちゃんと走ったので 面倒になってこれで出場する事に。) {東京大会の車検の件へジャンプ}
後輪は、普通にヤスリがけして少しだけローハイト化した。
タイヤ内側を爪切りで中空化した様な記憶。
前輪よりも後輪の径が大きいので、ローラーに前傾角がつく。
レース当日は、走行前までセロハンテープでホコリを取る事に気を使っていた。
ホイールは、前後共に「軽量ワンウェイホイール」を使用。
記憶が定かではないが、前輪にも後輪用ホイールを用いたと思う。
何箇所か穴を開けて軽量化した記憶。
ギアボックスから前輪へ動力を伝えるプロペラシャフトを改造した。
細いシャフトと金属ギアから成る「軽量プロペラシャフト」から金属ギアを取り外し、
軽量化の為にプラスチックの(白の8枚)ギアと交換した。
そしてギアが包み込むシャフト部分に工夫を凝らし、
走行中、前輪に強い走行抵抗が発生した時にシャフトの回転に滑りを発生する様にした。
この部分は接着剤とグリスを使用し、工程を分けて指先の感覚を頼りに適当に製作。
この機構によりレーンチェンジ上などで車体に前のめり傾向の力が作用する事を期待した。
バッテリー | : ニッケル・カドミウム | (田宮マーク。製造元は[?]) |
モーター | : ハイパーミニ | (懇切丁寧にブレークインした物) ※上の写真ではFA130 |
ギヤ比 | : 4:1 | (各ギアは穴開け軽量化) |
潤滑 | : セラミック・グリス | (田宮マーク。製造元は[?]) |
リヤエンドのボディカウルとシャーシを固定する部分にリヤ・スタビを装着。
リヤスタビの下面(路面に擦る部分)に、ボディキャッチホルダー用のOリング・ゴムを接着。
サイドポンツーンのエアインテークは、キットの出荷状態ではダミーのフィン付きで、気流の通路を塞いでいたので当然切り抜いた。
ライト部分も穴を開けて、透明プラ板を接着し、赤色発光ダイオードを点灯。
ボディのリヤの翼はキット出荷状態ではなく、一度切り取って、プラ板で作り直した物。