ウイリアムズ FW14B

text by tw (2020. 6.17水)

F1グランプリ史上、そのシーズンで最速のマシンは何だろうか?
コーリン チャップマンのウイングカー、ゴードン マレーのファンカー、最強の1988年マクラーレン ホンダ…、
これは議論を生みそうな話題だが、筆者は明らかにこれだと1992年のウイリアムズ ルノーを挙げる。絶対に断ずれる理由がここにある。

レーシングマシンとは、特にモーターレーシングの最高峰であるF1においては、車輌は、走行データから、
エンジニアの考察・判断と、ドライバーが体感した情報から、究極までセットアップを行われたマシンでなければ、レースで競争力は無い。
予選やフリー走行の状況で、限界までセッティングし尽くされた状態が、真に競争力のあるF1マシンなのだ。

しかし、1992年のウイリアムズでは、ここが完全に違っていた。それが最大のポイントだ。

ドライバーは、ほぼナンバー1ドライバーのナイジェル・マンセルと、ほぼナンバー2ドライバーのリカルド・パトレーゼのペア。
冬のテストの最初で、マンセルはこのシーズン用FW14Bが圧倒的な最速マシンである事を確信した。
それで即座に、チャンピオンシップで唯一のライバルはチームメイトのパトレーゼだけと判断していたし、実際そうであった。
ここからマンセルによる“作戦”が開始された。

マンセルの“作戦”とは、チームメイトのパトレーゼへ「完全な嘘の情報を与える」事であった。

1992年のウイリアムズのマシンは、
前(1991)年のFW14に、リ アクティブ サスペンションを搭載した物だ。
つまり車体の空気力学的デザイン面では、然程アップデートされた物ではなかったのだ。
そしてアクティブサスの搭載によって、車輌の最低質量は、規定の505kgより20kg程重くなっていたと想像される。
エンジンは引き続きルノーV型10気筒、3.5リッター自然吸気を搭載し、程好く軽量コンパクトで、出力もドライバビリティも優れていた。
尚、燃料はフランス エルフ社製のF1用 特殊燃料で、ルノーエンジンはその燃料に最適に設計された仕様であった。
この特殊燃料による出力向上は50馬力以上とも言われ、燃料を扱うメカニックはガスマスクを装着していた。

1992年の開幕戦は南アフリカGPであったが、マンセルは早速、パトレーゼと彼のエンジニアへ常に嘘の報告を行った。事実とは真逆の情報である。
これでパトレーゼと彼のエンジニアは困惑した。何故この様な事が起きる? 何故ナイジェルのタイムよりこれ程遅いのだ???と。
つまり嘘情報に基づいてプログラミングされたパトレーゼのマシンがマンセルに勝てる訳がなく、
これがシーズン終盤まで続いた。チームの上層部もマンセルの作戦に、シーズン終盤まで気付かなかったからだ。
マンセルはシーズン中盤のハンガリーGPで、早々にワールドチャンピオンを獲得した。

1992年、ウイリアムズ ルノーの後方には、
マクラーレン ホンダのアイルトン セナや、ベネトン フォードのミハエル シューマッハーが居たが、
でたらめなプログラミングを施したアクティブサスのパトレーゼであっても、
前述の両者より明らかに速かったという事実が、FW14Bの圧倒的な速さを示している。
でたらめなセッティングを施しても他チームよりも圧倒的に速い、これを超えるマシンはF1グランプリ史上あったであろうか???

マンセルのわりを食らったのが、1993年のアラン・プロストであった。
マンセルは1992年限りで引退を発表し、翌(1993)年からプロストがウイリアムズ ルノーに加入した。
しかし1992年のほぼ半年間もの永い間、ウイリアムズのアクティブサスのプログラミング開発が滞った事から、
1993年、マクラーレン フォードのアイルトン セナと、ベネトン フォードのミハエル シューマッハーから総攻撃を食らう事になってしまったのであった。



では肝心の、1992年のウイリアムズのアクティブサスについて述べる。
これは、車体の姿勢を一定に保つ事で空力性能を最大限に発揮する。
更にストレート走行時に、ステアリングホイールにあるボタンを押す事で、車体の地上高を上げ、空気抵抗を軽減していた。
つまりブレーキングとコーナリング時にハイダウンフォースで、ストレートではロードラッグとできた。

車高を操作するシリンダーには、周波数の高い領域はシリンダー内の圧搾空気圧で対応し、
基本的なライドハイト(地上高)は油圧で制御していた。
フロントはバンプ、リバウンド共に油圧で制御していたのに対し、
リヤは油圧が押すだけの制御(リバウンドを外的要素に任せる)となっていたのが印象深い。

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